5Apr
悪魔の証明というのは、「ない」ものは証明できないというものらしいです。
たとえば、虹色の桜が「ある」ことを証明するためには、その桜の木が1本存在すれば、もうそれで「ある」ことは証明できます。
でも、「ない」ことを証明するためには、世界中の桜を見て検証する必要があります。当然ながら世界中すべたの桜を見つけ出すことなど不可能です。そうなると、「ない」ことを証明することは理論上ありえないこととなります。
少し話は変わって、
否定形っていろいろと不思議だなって思うときがありますね。
たとえば、
「僕は弁護士ではありません。そして医者でもありません」
と言ったとします。それゆえに「弁護士と医者ではない」ことははっきりと分かったのですが、じゃあ、あなたは何なんですか?
と否定形を使うといったい何を言おうとしているのかが分からなくなります。
ちなみに、肯定形で言えば、
「僕は、性感マッサージ師です」
といえば、ああそうなんですね! とその一言だけでその僕が何者かが分かっていただけます。
そういえば、英語は先に否定形がくるという風にならいました。
「I am not ~」
日本語はいちばん最後に「~でない」
となります。
こういった言語の違いから、日本人は物事をはっきりせずあいまいと思われるゆえんかもしれませんが、あいまいがゆえのやさしさがある国民性とも思ったりもします。
さて、話はもどして、
たとえば、自分のことが「才能がない」ことを証明することは、さきほどの悪魔の証明からみても、それも証明できないことになります。
「仕事ができない」というもの、これも証明ができない。
仮に今行っている仕事ができなかったとしても、ほかの仕事であればできうる可能性がある。世の中にはたくさん仕事があるし、さらにいえばこれからどんどん新しい仕事ができてくるんだし、そうなると、仕事ができないという証明はできない。
そうなると、「モテない」ということも証明できない。
これを証明しようとすると、全世界の女性(もしくは男性)に会う必要がある。仮に日本人にはまったくもてなかったとしても、パプアニューギニア人だったらモテるかも知れない。
まあ、僕が思うに、「ない」ことに目を向けるのではなく、今「ある」ことに目を向けることが大事なのかなとそんな風に思ったりします。
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